Avalonを観ながら寝てた、起きてもまだやってた(嘘
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2001/07/25
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こういうpush the limitな作品のよくないところは、いきなりおなか一杯になっちゃって、同じジャンルへの興味が減退しちゃうってことだよな←トシのせいだよ。
最後のソプラノのソロは、もうすこし広がりのある音だとよかったとか、今見ると思うことはあるけど、不満はそんくらいだってところが、俺の進化がいかに停滞してるかってことでもあるorz..
そうそう、吹き替えのほうで見てたのは違和感あったな。
あれー、repcached(memcached+replication patch)が起動せんぞ
configure通ってるのに、なんでlibeventのライブラリが見つからないとか言うのだ?(環境はCentOS5 でXenのDom-U)
# memcached -h memcached: error while loading shared libraries: libevent-1.4.so.2: cannot open shared object file: No such file or directory
libeventは、coreに含まれているのかyum install/updateできず、tar ballからインストールしたのがまずかったような気もする。libevent-utilだけは単独でyum updateできたのも違和感あるけどな。
rpm作ろうとしたら、テストでハマった。
# cd /usr/src/redhat/SOURCES # wget ........ # tar zxf memcached-1.2.5-repcached-2.0.tar.gz # cd memcached-1.2.5-repcached-2.0 # ls (中略) memcached.spec (中略) # rpmbuild -ba memcached.spec (だらだらだら) + cd memcached-1.2.5 + make test prove ./t t/00-startup......... t/00-startup.........ok 1/3getaddrinfo(): Name or service not known failed to listen t/00-startup.........ok 2/3 t/00-startup.........ok t/64bit.............. (ここで詰まった)
(追記:ハマりの続きは http://d.hatena.ne.jp/kgbu/20080423#1208909787 をどうぞ)
パッケージングのde facto standardについて
rpm, yum, apt-getとか、distributionによっていろいろ違うのだけど、管理プロセスは「どこでも使える」ものがあるといいな。distributorにとっては、自分たちのプロセスが最善だという自負もあるし、実際使い慣れたツールは手放せないのだけど、「この方法なら、効率はともかく、どんなシステムでも動きまっせ」というプロセスが存在すれば、Linuxに乗ったパッケージのクオリティは上がると思うんだけどな。
あ、そうか、それがLinuxのcoreであればいいのか。
PAM (Pluggable Authentication Modules)やLSM(Linux Security Module)みたいな考え方に近いかも。こっちはpluggableなAPIなわけだけど。
なにがクラシックか?自己撞着的、超越的ならば,,,
たとえばAvalonとかはSFストーリーのCG映画作品のクラシックとして認められないか、とか考えているときに、何がクラシックの基準なのかと考えた。オタクな人々にとってはまったく余計なお世話だけれど。
貨幣が、「貨幣として使われるから貨幣でありつづける」というように、その存在=真理が何者にも依存せず、ただ奇跡的に発見、成立するのを待っていたような物。それがクラシックだと。
創造的破壊、いや、破壊ではなく、エデンの園のように、これまでの公理体系の外に超然と現れる真理。
一度真理として認識されてしまえば、それがそれまで存在しなかったことなど考えられないような真理。(だから、後から見直したとき、「ありきたりじゃん、退屈!」という評価を受けることもある)
そういう存在はクラシックと認められるのではないだろうか?
ただ、これまでのものとは違う、というのではなしに、この世界になにものか独立した公理を新たに付け加え、歴史的前進(進歩ではなく)を成したもの。それがクラシックだろう。
...とか、ぼんやり考えた食休みだったことよのぉ。
(「世界を変えた金融危機」の不確実性の項を読んで追記)
あー、これ(クラシック)はイノベーションだよな。そうだ、それだ。
そして、イノベーションが世界のパイのサイズをでかくする(真理を付け加える)から、それが世界全体としてみれば利潤になるんだよ。そうだよね>ナイトさん。
...しかし、ナイトさんは「イノベーションに挑むような奴らが無駄骨を折るから、それがまわりまわって利潤になるんだ」とも言う。パイが膨れるのはインフレだよ、って。
(追記の追記)
パイはさ、造幣局が輪転機回せば増えるんじゃないの?
いやいや、貨幣ってのは「流動性への期待」ってことだから、貨幣を使う、ためるってこと自体がなにがしか不確実なことに賭けることだ。だから、増えた貨幣をインフレさせずに流通させるってことにはよほどのお人よしかうぬぼれ加担してないとダメだよな。
(まだ追記)
「世界を変えた金融危機」のp.102で、世の中は新しいことに満ちている、、というくだりがあるが、最近の世の中が新しいことに満ちているのは、もはやそういった差異をどんどん「創造」することでしか利潤が得られない、外部・フロンティアを失ったグロバール経済の姿を映してるんだよなー、と←岩井克人色つきめがね。
グリーンスパンの「回顧録」のほう、予約した
明日とりにいけるかな。
ふと手に取ったら「置くあたわざる」本がある
1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)をちょっと読んでいたのだが、1997年にIMFがタイやインドネシアに始まる金融危機の収拾になぜ失敗したのか、というあたりが非常に面白い。
IMFは何を間違えたか?
投資家心理としては、投資を続けるには、相手の国の経済システムが正常だという保証が欲しいだろうとIMF(というかその後ろ盾で資金供給していた米国の財務関係者)は考えた→インドネシアや韓国など、苦境に陥っている国にシステムの改善を求めた→ところが、投資家には、「改善要求」は「問題のリスト」に見えた>逆効果となって、さらに資金が引き上げられた
また、別の逆効果としては、経済システムの改善を求める人質として、システムが改善されるまで融資に待ったをかけてしまった。これはバジョットルールに反することで、その国の財政不安に対する投資家の不安を煽る結果となった。
もし、IMFが金融危機に原因があると考え、それを直そうとした場合、ここに2つのダブルバインドがあるだろう。
- 迅速に資金を融資したら、相手の国はシステム改善に対してモラルハザードを生む。資金を出し渋れば、効果は無い。
- システム改善のポイントを明確にして「直すかどうか投資家が見てるぞ」と脅さなければ相手の国はシステム改善をしないかもしれないが、そうすると、投資家の心理を冷やすことになる。
では、どうしたらよいのか?何を諦めればよいのか?実際のところ、何ができるのか?かなり面白い。。。でも仕事しなきゃ。
で、1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)読了
一気に読んでしまった。
どこかでまとめを書くかもしれないが、とりあえず、事前の予想は見事に覆され、単なる金融内幕の紹介ではなくて、国際金融の今と正面からぶつかっている現代経済学の成り立ちが良く分かる「教科書」、いや、副読本という感じだった。
メモする時間が惜しくて、とりあえず気のついた箇所はカメラで撮影しちゃって、あとでそれを見ながらメモを再構成するつもり。