なにがクラシックか?自己撞着的、超越的ならば,,,

たとえばAvalonとかはSFストーリーのCG映画作品のクラシックとして認められないか、とか考えているときに、何がクラシックの基準なのかと考えた。オタクな人々にとってはまったく余計なお世話だけれど。

貨幣が、「貨幣として使われるから貨幣でありつづける」というように、その存在=真理が何者にも依存せず、ただ奇跡的に発見、成立するのを待っていたような物。それがクラシックだと。

創造的破壊、いや、破壊ではなく、エデンの園のように、これまでの公理体系の外に超然と現れる真理。

一度真理として認識されてしまえば、それがそれまで存在しなかったことなど考えられないような真理。(だから、後から見直したとき、「ありきたりじゃん、退屈!」という評価を受けることもある)
そういう存在はクラシックと認められるのではないだろうか?

ただ、これまでのものとは違う、というのではなしに、この世界になにものか独立した公理を新たに付け加え、歴史的前進(進歩ではなく)を成したもの。それがクラシックだろう。

...とか、ぼんやり考えた食休みだったことよのぉ。

(「世界を変えた金融危機」の不確実性の項を読んで追記)
あー、これ(クラシック)はイノベーションだよな。そうだ、それだ。
そして、イノベーションが世界のパイのサイズをでかくする(真理を付け加える)から、それが世界全体としてみれば利潤になるんだよ。そうだよね>ナイトさん。
...しかし、ナイトさんは「イノベーションに挑むような奴らが無駄骨を折るから、それがまわりまわって利潤になるんだ」とも言う。パイが膨れるのはインフレだよ、って。
(追記の追記)
パイはさ、造幣局が輪転機回せば増えるんじゃないの?
いやいや、貨幣ってのは「流動性への期待」ってことだから、貨幣を使う、ためるってこと自体がなにがしか不確実なことに賭けることだ。だから、増えた貨幣をインフレさせずに流通させるってことにはよほどのお人よしかうぬぼれ加担してないとダメだよな。
(まだ追記)
「世界を変えた金融危機」のp.102で、世の中は新しいことに満ちている、、というくだりがあるが、最近の世の中が新しいことに満ちているのは、もはやそういった差異をどんどん「創造」することでしか利潤が得られない、外部・フロンティアを失ったグロバール経済の姿を映してるんだよなー、と←岩井克人色つきめがね。