メタ・エレガンス

メタマス!―オメガをめぐる数学の冒険」と「会社はだれのものか」を同時に読んでいるせいか、変なことを考える。
最初は、paradigm shiftのことについて考えていた。
サイエンス、テクノロジーの現場で、考え方の根底を揺るがすのがparadigm shiftだが、それを促すのは、基本となるテクノロジーの成熟や、コスト構造の変化だったりする。
テクノロジーにおけるparadigm shiftの例として、最も適切かどうかはともかく、なぜか頭に浮かんだのは、dumb networkによるインターネットの興隆だった。これは賢さの移動、というparadigm shitがテクノロジーの領域で起こった例(実は、利用者の頭の中で起こったともいう)だ

programming language(というよりprogramming 手法というべきだな)でもparadigmの変遷はある。この場合、ようするに、視点、目のつけどころが変わったと思う。

いずれも、変化は頭の中の「指向性」のdomainで起きている(あー、すごくtautology)。最終的にはどんなparadigmでプログラミングしようともアセンブラで落とすことができるわけで、programming languageは基本的にはparadigmとは関係ないのだが、手法と道具が分かちがたく結びついていた歴史は、ある。

数学だって、paradigmは変化している、と思う←この認識は「メタマス!―オメガをめぐる数学の冒険」の影響
ユークリッドの原論からヒルベルトの形式化につながる系譜は、ゲーデル不完全性定理でうちやぶられた。

そしてメタ数学では?
何がエレガントか、という判断(というか指向)も、単なるパラダイムなのではないか、という気がしてきた。
人間の脳みそ(短期記憶)が7±2というサイズでしか働かないから、つまりはレジスタがそんだけしかないから、四色問題のコンピュータによる解法というのがエレガントに感じられないのではないか?

もっとレジスタがたくさんあるか、もしくはレジスタが少なくてメモリ空間の広い領域にランダムアクセス可能な知性が存在したとしたら、アルゴリズムのステップ数や問題の深ささえ少なければ、手順がいくら発散しようとも、エレガントだ、という見方をするかもしれない。