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読書メモ断片:福島の原発事故をめぐって - 山本義隆

DISCLAIMER - 以下、断片的なメモであり、事実誤認が含まれている可能性が高いです。

 

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福島の原発事故をめぐって

 

1部
p.24 産業政策の枠を超える外交、安全保障政策の問題であること

2部

技術と労働の面から見て
p.27 原子核物理学から原子核工学の距離の大きさがリスク

ゴミの無害化の困難さを無視して稼働することが工学としての原子力の未熟さである。
米国の最終処分場であるユッカ山の決定はオバマ政権でも宙に浮いている。
http://ameblo.jp/aries-misa/entry-11332005228.html

p.40 人形峠のウラン残土のユタ州への輸出、という無責任
http://actdoi.com/syukan%20asahi.html

p.48 被爆による配管や容器の硬化、腐食について、ノウハウが溜まる前の
 設計の機材を使い続ける愚

p.51 緊急対応システムの「実験」ができていない。壊すテストができていない。

3章

技術史を参照するところで本領発揮か


技術が自然を越える、、という観念は16世紀のルネサンス以後、目立つ。

知識、そして工学の有用性に目覚めた人類(アラビアの文化圏ではそれは保存されてはいたが)
思弁的な論理知と技術的な経験知
 p.64 その融和過程が仮説の実験による検証という科学のスタイル。ガリレオが嚆矢であろう。
    そして、実験と仮説の検証には人間の理性というものが上位にくる。神でもなく、自然でもなく。
    自然は有能な教師だが、科学の主体は人間だという意識。
 p.66 その延長上に科学技術による自然の征服という思想:ベーコン
   先進技術開発の目的意識的遂行 (IMHO:でもこれはある意味サイエンスの方法とは相容れない。自然は人間の予想:仮説を越え、棄却することがあるが、それを容認するのがサイエンスの方法論)

 ところで、産業革命のころは、まだ先進科学から産業への寄与、というパスは成立していなかった。
 偶発的な技術的発見に理論が追随していく (IMHOある意味これがサイエンスのbest can doなのだが。。。実験できる技術と経験の蓄積があって初めて理論が検証可能となるのだから)

電磁気の時代になって初めて、理論が主導となる。それはこれまで人間が体験できる自然を越えたものだったから、と言う点が大きいだろう。例)磁力は魔術に源を発する言葉。

そして、テクノロジーの初期の挫折において、人間の限界を意識する知識人も現れたが、世界はそれにはかかわらず、電気につぐ、理論主導のあらたなテーマ:原子力に突き進む。そこには、軍事力と産業というパワーの結集も後押ししていた。そして、目的意識的開発の究極の成功例としての原子爆弾があった。

この流れに原子力開発はある。国家的目的意識に導かれたもの。そして個人の疑問の差し挟む余地のないものになっていった。そしてそれはサイエンスからの乖離でもある。神話とそれに仕える神権政治である。
通産省の成長計画とは、未来へ続く神話でしかない。

p.89の検証は工学的にもきちんとしたものにならねばならない。
 ・技術的怪物であるという側面
 (IMHO:アメリカ国内での「実験」がキチンとしていて、廃棄物の処分が可能であれば、それをフィードバックした技術は「人間に許されない」ものでは無い可能性がある。しかし、実験すべきかどうかは問題である。
一方で、既存のエネルギーも無害ではない。どうやって先に進むか、経験と倫理に基づいた当たり前の判断が必要である。)

 ・政治的アンタッチャブルであるという側面
   これは大きな問題だ。それによって不幸になる人々を無くすためには全面的に戦う必要がある

 ・原子力を捨てる。という結論は、廃棄物処理という現状ではやむなしだと思う。サイクル確立してからが問題だ、そしてそれは克服すべき課題だ。再生可能エネルギーは確かに必要だが、石油依存をどうやめて行くかという問題も含めて考えることになる。それをほっぽって、今の経済的リターンを云々するのは子孫に対する冒涜であり、真の破滅の道だ。まぁ、それが人間の限界かもしれない。