<わたし>はどこにあるのか - ガザニガ脳科学講義 読書メモ

本文の引用が多くなってしまったので反省。

3章までが自分の興味を引く分野だったけれど、脳と社会の共進化という意味では脳と脳が相互作用する場である社会の有り様と、それを規制する法、特に自由意志の存在を仮定した自己責任の考え方というのは、今後問題になるかもしれない。(それより先にロボットの<人格>みたいなことが問題になるようなきもするが)

 

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

 

 

 

以下、自分用のメモ。忙しかったり、自分にとって自明な部分は漏れているはずなので、ぜひ本書を手にとって読んでください。

 

そもそも1章、2章の脳神経科学の興味深い事例とかは自分としては既知だったのでメモしてません。

 

3章 interpreter module

あと講釈と自己の統一感の関係

  • 無意識と反射
  • 無意識が判断に影響を及ぼす
  • 錯視は意識が介入困難なほど強固なこともある


p.103その統一感はどこから?

左半球のモジュールが、並列モジュール間の代表をつとめている。らしい。
言語化、、とは、状況と矛盾しない説明をどこからかもってくる、ということ。

状況が矛盾しない、、ということ=統一感

統一感とは作話である。だって実際は独立並列処理なのであるから。

そしてそれが言語と結びついているところが。。。そう、言語とはlogなのであり、それは必然的にserializeでmarshallingを伴う。

屁理屈、判断(取捨選択)はこのinterpreter(filter) moduleが行っている。

統一感はmax関数であり、それは単純にfilterの働きをするが、パターン化の傾向がある。パターンがないところでもパターンを生みだそう、選び出そう、あることにしよう、という傾向がある。
IMHO それが教育のフェーズでは有利に働くのだと思われる。)
外界を認識する、という場合はその中の構造を取り出すことであるから、それでいい。
完全にランダム、もしくは統計的な確率しか関係がなく、決定論的でないものにはフィットしない。

右半球にはそのモジュールはない。そこが主導しての発話や動作には決定論的なシステムがあるのみ。maxをとりだすmaximizer

左半球はパターンをとりだそうとして、取り出したパターン上でのマッチングを行う。このメタレベルのマッチングがあるからカテゴリーに対する処理ができるが、正確さは失う。

このインタープリターモジュールは3歳ぐらいだと未発達であるという。

p.113 分離脳患者が示す、動作による左右脳の通信補完
首を動かして左右両方の目から情報をとりいれる
声にだして状況をしゃべり、左右両方の耳からとりこむ

p.114 右半球にもinterpreter的な作用をするモジュールがあった。それは右半球が得意な情報処理に関するものだった。
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- 相貌認識
- 視覚処理(3D認知)
これをやらせると、知恵を使った判断が入り込んでくる。(確率の予測とか、過去の経験に基づいた判断とか)その結果、複雑な「錯視」が右半球だけ見える、といったことが起きる。


チェスの駒の配置の記憶、、、実際の棋譜にあるものだとほぼ完璧だが、ランダムで無意味なパターンは記憶できない、というか記憶にあるものとリンクできない。



IMHO: interpreterは専用モジュールの出力についてそれぞれある可能性がある。左半球の言語の部分が一番意識(の言語化)に直結しているだけのこと。

p.117 interpreterの動作、記憶とのマッチング
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記憶しているパターンとの照合:おそらくそれは各モジュールのアウトプットのfingerprintとの照合なのだろう。
そして、それにマッチしているものを強化して送り出す。

モニターの欠損: supervisorが死んだら。。
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interpreterはモジュールから上がってくる情報をmonitorしている
モジュールの誤動作や欠損はinterpreterに情報がくれば気づくことができる。
monitorしているのは頭頂皮質だが、これがくたばっているとモニターの警報が出ない。
なにもアウトプットがない場合は「意識することができない」
体制感覚のない腕や足は頭頂皮質からの警告がないかぎり、「じぶんのものではない」

IMHO: 意識のステージに参加できない。

相補的な認知の片方からの情報が抜け落ちていて、それをモニターするところも壊れていると、認知の不整合がおき、それを繕うために作話が始まる。
例:父親の相貌は認識できても、情動関連のシグナルがこなくて、情動関連のモニターも故障を報告していないと、「あれは父さんのはずなのに、親近感がわかない、だから偽物なのだろう」という作話が構成される。(ランダムな状況から有力なパターンを拾い出した)

p.122 インタープリターの可塑性

経験や教育が、無意識の正確なシグナルを無視するように上書きすることが可能である。

頭頂葉には、認識の食い違いがはげしくなると騒ぎ出すmonitorがあるらしい。突拍子もない思いつきを喋り出すのはこのモニターが障害を受けている可能性がある。
一方、左頭頂葉が作話、合理化をやめると、無慈悲な右脳の認識がおそいかかり、うつに陥りやすくなる。

因果関係のむりやりな捏造:左
因果関係の正確な認知:右半球

IMHO: 経験に照らして判断するのは右。左は捏造する、というかそういうパターンをどんどんひねり出して、相互で調整していくところが妙味なのかも

p.127 現在の神経科学では、意識は総合的な単一のプロセスではないというのが定説だ。
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意識には幅広く分散した専門的なシステムと、分裂したプロセスが関わっており、そこから生成されたものをインタープリター・モジュールが大胆に統合しているのだ。
意識は創発特性なのである。
様々なモジュールやシステムが注意を引こうと競い合っていて、勝者が神経システムとして浮上し、その瞬間の意識的経験の土台となる。
たえず入ってくる外からの情報に脳が反応して、行動の展開を計算し、実行に移すあいだに、意識的経験も組み立てられていく。

参考文献 - Springerから論文が出版されているが高い。
Gazzaniga, M.S., & LeDoux, J. E. (1978). The integrated mind. New YorK: Plenum Press.

p.128 again, 私たちは無数のモジュールから構成されているのに、自分が統一のとれた存在だと強烈に実感しているのはなぜか?
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私たちが意識するのは経験というひとつのまとまりであって、各モジュールの騒がしいおしゃべりではない。意識とは筋のとおった一本の流れとして、この瞬間からあの瞬間へとよどみなく、「自然に」流れている。
この心理的統一性は「インタープリター」と呼ばれるシステムから生じる経験だ。
インタープリターは、私たちの知覚と記憶と行動(の知覚)、およびそれらの(因果)関係について説明を考え出して(作話)いる。
それが個人の語り(narrative)につながり、意識的経験が持つ異なる相が整合性のあるまとまりへと統合されていく。
混沌から秩序(整合)が生まれるのだ。
インタープリターモジュールはヒトの脳の左半球だけに存在すると思われ、仮説を立てようとするその衝動が、人間のさまざまな信念(仮説そのものだが)を生じさせる原動力になっている。

逆にいうと、それが脳の制約でもあるのだが。

p.129 なぜあとづけのでっち上げが大問題なのか

自由意志とか決定論、自己責任、倫理基準というのは、この脳の実装を前にしてどんな意味があるのか、というのがのこりの4から7章のお題である。

脳、意識、インタープリターで検索された結果
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約 200,000 件 (0.47 秒)

脳の不協和音を解読する(2):MikSの浅横日記:So-net blog
    shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-11-08

意識に相関した脳活動 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/意識に相関した脳活動

Amazon.co.jp: 意識は傍観者である: 脳の知られざる営み ...
www.amazon.co.jp/意識は傍観者である-脳の知られざる営み.../415209...

 

脳と心はどこまで科学でわかるか - 科学技術インタープリター ...
science-interpreter.c.u-tokyo.ac.jp/outline/events/publish/publish_81.html

自己意識 - 脳科学辞典
bsd.neuroinf.jp/wiki/自己意識

虚構を考え直す(2) :MikS: works & projections:So-net blog
miksil.blog.so-net.ne.jp/2009-12-28


The Swingy Brain: 意識の神経学
swingybrain.blogspot.com/2008/11/blog-post.html
http://swingybrain.blogspot.jp/2008/11/blog-post.html

 

4章 自由意志という概念を捨てる


IMHO なぜ自分で判断できると感じるのか?
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まず、インタープリタのおかげで行為は合理的な意味づけがなされている。
経験、記憶として自分は合理的な行動をとったということになっている。

そして、今後もこの経験に強化された無意識が合理的な行動を行う可能性は高い。

したがって、合理的に行動した、ということはどんどん強化されていく。

自分は正しい。ということも強化されている。

自分がとった行動が合理である、その自由がある、ということも整合性がある。

いったんこの概念が発生すれば(その発生確率がゼロでなければ、、そしてゼロではないだろう。最近は社会的に教育されるし)強化される。だから、存在する。

章の内容は以下
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自由であるというが、なにから自由なのか?他人や物理世界の「自由、勝手、予測不能」を許容できるか?

人間が機械であるとすれば、自由があったとして、人間が自己の行動の説明と責任を引き受けられるのか?

人間の知性と行動は、その身体と外界という明白なハードウェアと、脳の内部の結線と信号の状態というソフトウェアでできている。ハードウェアの状態とソフトウェアの規制が戦うことがありうる。

社会的規範と人間の機械ハードウェアの状態とソフトウェアの状態の組み合わせとの相克。倫理や規範は社会がなければ存在しない。

意識はあとづけのストーリーにすぎない。ハードウェアと社会規範がそれを制約している。実際にどちらが勝つかはハードウェア、ソフトウェアの状態に依存していて、社会側のデータだけでは決まらない、、ということで、
(IMHO)自由、勝手なふるまい、というのは社会の側から人間を観測した場合のブラックボックス性に由来する。もっとも、本質的に複雑な非線形フィードバック系だからカオスであることは確かだ。


p.142 インタープリターは感覚に基づき、意志がなにかをした、ということに現実を書き換えて、それを我々は記憶して、あとから引き出すことができる
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金槌で手をたたいてしまったときのこと

手を引っ込めるのは反射であり、痛みを感じるより前
しかしインタープリターが整合させたあとでは、痛みを感じたから、ひっこめた。になる。というか、そういう記憶しか(強化されえないので)生き残らない。

自由意志というのはうまく働く信念だからいきのびている
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自由に振る舞えるとき、人は社会的に善をなしている。
ボランティアと善行の関係。

p.146 カオス系と相転移と決定論の黄昏
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決定論が力を失う場所。
相転移が理論を関係のないものに変えてしまうことも決定論をうちくだいた。量子力学から巨視的なニュートン力学への不連続性

p.160 意識の時間差

鼻を指で触るだけでも、それぞれの神経のラグはかなりあるはずだが、それが同時にされてしまう。
有名なベンジャミン・リベットの実験から、2008年には、脳がある傾向に入るときは、動作に先立つ10秒くらい前からいろいろおきているらしいとまでfMRIでわかっている。

意志、信念はどう機能するのか?

IMHO:機能なきものが存在するわけはないのである。)

まず、決定論はあまり意味がない。行動は観察だけで完璧に予測はできない。
人はどう行動するかは、結局のところ、わからない。
脳の構造を100%モデル化する、ということも意味がそもそも見出しにくい。

p.163 伊勢海老問題

伊勢海老の単純なシステムを完璧に解明し、その冗長性(多重実現可能性)もわかった。
伊勢海老程度でもその組み合わせは爆発的にでかいが、実際に機能するパターンはとても小さく縮退している。
それはニューロンの結線や演算機能だけではなく、それらを規定する外部の情報や蓄積された記憶などが、システムのありかた(自由度!)を限定している。

そして、なにから自由なのか?という問題がある。
判断は経験に基づく。
合理的に、ということであれば自由はない。
非合理的に、というとき、それは経験と反する行為を引き起こす要因がある、というだけにすぎない。

責任や自由というのは、社会的な性質であって、脳の機能ではない。というあたりが落とし所か。
「(規範に制約された)行動にしても、責任や自由の感覚にしても、多くの脳の集団相互作用で見出される創発的な性質だ」

脳個体では起こり得ないこと。それが集団のスケールがあがると、脳単体の構造からは予測できないものがおきてくる。創発される。

p.168 微視的な構成要素を理論で完全にときあかしところで、それがどうやって興味深い高分子構造を形成するのか、そこに至るプロセスがどう働いているのかを普遍化してくれる新しい理論体系は浮かび上がって来ない
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脳そのものの構造が完璧にわかったとして、意識、自由意志の立ち上ってくる構造は見えてこない。

(IMHO)でも、複雑系やカオス、非線形サイクルや自己組織化、相転移、swarm computingのアイデアはいい道具だと思うけどね。

脳は機械だし、反応や記憶は脳の領分であると思う。しかし、意識、責任と自由が育ってきたのは社会的な規範(合理性の非身体的基準)であって脳同士の相互作用、共進化の結果だ。

言葉、コミュニケーションも脳の相互作用と切り離せないだろう。

 

5章 ソーシャルマインド


この章では社会力学が個人の選択にいかに組み込まれ、私たちが生存のために他者の意図や感情や目的をいかに読み取っているか、また社会的プロセスが個人の精神にどう制約をかけていいるかを見ていく。

IMHO 心は社会による制約で大部分できている。それが言葉で表現できるのが何よりの証拠だ。

標準装備:進化的機能

原始的な社会行動:模倣 (他者の理解。
生まれた時点でハードワイアードな機能も多い。
利他的行動の発露。

社会的行動の起源:数の安全
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進化的には人類はとても小さなグループとして生き抜いてきた経歴がある。

遺伝的に用意されているのは、そこまでだろう。

脳はその中身が社会的経験によって影響される。他者のモデルがまさに脳内に存在する。
対話する脳をfMRIで見ると、話者の活動のミラーが聞き手におきる。
(つか、脳内で再生しえない話というのは共感も理解もできない、、というか共感や理解というのは、言語的刺激によって経験が検索してヒットしてそれが再演された、ということなのだろう)

これは霊長類の時点で完成されたシステムである。

まーその共進化の過程についてはいろいろ論がある。

文明と脳の共進化
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(IMHO 脳の中身が進化しているが、その本体は社会側からダウンロードされてくる、のだろうか?生物学的に進化する暇があるだろうか?)
短期的に優位に立つのはダウンロード可能なソフトの差異。長期的には生物学的遺伝内容の優位性がモノを言う。
ソフトの差異が遺伝によって表現されることがあれば、その変異は保存される可能性は高い。たとえ少ない世代でも選別が働く可能性はあるだろう。

ボールドウィン効果

素養としての社会的遺伝子。攻撃性の低さ、他者との協力。他者を脳内でイメージできるハードウェアが猿との違いになったかもしれない。
そして、一度社会を形成すると、粗暴な遺伝子はどんどん駆逐されていった。

家畜化された動物も同様の選択をうけた可能性がある。

社会神経科学
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他者をメンタルモデルとして持てるのは人間だけか?
他者は人間だけか?擬人化という機能。

ミラーニューロン
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ジャコモ・リゾラッティは猿のそれ。人のミラーニューロンはさらに拡張されている。
他者の理解力がハードウェアとして優れている。
他者の情動、、、行動だけでなく、その内部までモデル化できる、、というか、情動が行動と不可分でもあろう。

道徳モジュール
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社会規範のモデルが脳内に構築されていれば、それが稼働するのは自然だろう。
でもどうやってそれは獲得されたか。
教育によって。。。?

  • - 他者を傷つけず、困っていたら助ける
  • - 公正、性技、他者を平等にあつかう
  • - 伝統や正当な権威者を敬う
  • - 所属集団、家族、国に忠誠を示す
  • - 清潔を尊び、汚染と肉欲を遠ざける


これは狩猟・採集時代に定着してもはやハードワイアードなのかもしれない。

 

 

6章 私が法律だ



人間の自由意志の認識が変わるならば、それを裁く法律も変わるだろう。

ルールは、守れそうだからルールである。そして守れない者を淘汰してきたから、守ることが期待されているとも言える。

脳の内部には社会規範ん基づいてセーブするモジュールが組み込まれている。それ以上を期待するのは無駄だし、危険である。という認識がベースにあり、そのうえでその脳とうまく付き合える、もしくはより良い脳を選ぶルールを作ることは可能である。淘汰されない側ならばそれでいい。

で、所属してきた社会がことなれば、脳もちがった形になっている。というのは定量的・定性的に判定できるものになってきている。
遺伝子構成もことなり、それが感情コントロールのホルモン分泌なども変化させる。

 

で、この章の以下の部分は議論としては面白いけれど、自分はあまり興味ない。

7章 あとがきにかえて


ジョン・ドイルの言葉

p.274 整合性があり、機能と振る舞いがかみ合っているように見えるシステムには、
なんらかの本質が存在していて、中央制御の要素が総責任者をしているにちがいない。
私たちはそう考えるのが習い性になっている。
私たちは抜きがたい本質主義者だ。
左脳がそれを物語っている。

本質は分散しているのだ。
それはプロトコル、規則、アルゴリズム、ソフトウェアのなかにある。

重要なのはモジュールではなく、モジュールが従わなくてはならない規則にある、ということだ。

 

結語
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精神プロセスが脳を制約する、あるいはその逆のときに起こることを、的確に伝える表現を考える必要がある。

問題はこの2つの層のインターフェースだ。
それは下向きの因果関係と上向きの因果関係が出会うところにある、あるいはそこには存在せず、相互作用する脳と脳の間の空間にある。

階層構造のインターフェースで起きていることに精神と脳の関係を解き明かす答えがあるのだが、それをどう言い表せばいいのか?
この創発レベルは時間経過が独特で、実際に起こる行動と足並みをそろえている。
私たちがいまの時間、現実の手応えを感じながら、責任のある行動をとれているのも、この抽象作用のおかげだ。
私たちに意識される前に脳が仕事をしているという話題は、異なる作用レベルの視点からは異論も多く、重要視されていない。

階層式の相互作用に適切な表現をいかに見つけるか。それが今正規の科学の課題だと私は思っている。