narrative - serial dataの喚起力とそれに呼応する脳のアーキテクチャの限界

VRは言葉と繋がらなくては力がない


という音楽系の渋谷氏からの指摘

これはどう捉えたら面白いか

脳が処理できる、というか反応できるのは現象のシリアルなつながりではないか?

脳のニューロンの連鎖を駆け巡るものは結局はシリアルデータ

そして、それを励起させる、共鳴させるのもシリアルデータ

ナラティブとか言葉とかもけっきょはシリアルデータ

体験、もそう。

雨の匂いを嗅いで、夏休みの思い出がフラッシュバックするのも、その思い出というのも現象の連鎖

シーン、それは原因>結果みたいなシリアルが必ずある

一枚絵、で想起できる、という人もいるだろうが、人間の視覚と認知というのは1つの絵も視線を動かしてシリアルに構造を認知していく。その視線の移動こそが一枚の絵の構造と成る。

 

音楽を生業としている人なら、音の連なり、言葉の連なりというのは普通の人以上にリアル(実はこの言葉は自分にとってかなり曖昧だが)なものだろう。言葉が隣に座って自分の目を覗き込んでいるように感じられることもあるのだろう。

 

VRが言葉を重要視するべき、というのは、一枚の絵、ではなくて、事象の連なりが、人間の脳に響くよ、という指摘と読むとめちゃくちゃ自分にはよくわかるきがする。

 

ただし、その連なりというのは脳のハードウェアやファームウェアにハードコードされているものではないだろう。私的な体験が積みかさなって共鳴器を構成している。

マスに響く言葉があったとして、それは公約数的なシリアルパターンをなぞっている、ということであり、大抵の枝葉末節が削ぎ落とされた、マクロな、メタなパターンとなるだろう。

言葉。がそれなのだろう。

マスの掛け算の結果、トータルな影響力として、言葉の効率の良さは凄い。

そういうことなのかもしれない。

一方で、言葉そのものをリアルに感知できる力があって、その体験からの発言、ということなのかもしれない。それもとても興味深い事象だと思う。

 

一方で、VRは「実質的なリアルの代替物」であり、人に嘔吐させることも、心臓麻痺を起こさせることも、現時点で可能になっていると思う。

If you die in VR, you die in real life