生存確認

生きている。その証明のためにVisual Studio CodeのGolangの環境を更新した。

go 1.8がgo 1.10になり、

それでいて機械学習の世界でのプレゼンス(あくまでも自分のような素人向けには)がPythonとは比較にならない状況で、最近はなかなかgo言語に触れることがなかった。

 

別にPython上にあるものを移植しようとかいう目標は無い。

しかし、ある程度の量のデータを扱うとき、Pythonで完結しない仕事になるのなら

golangでやってみてもいいのではないか、という気持ちがある。

 

実際のところ、どれだけやれるかはわからない。自分の脳みその劣化を毎日思い知らされている身なのでかなり悲観的な気分でもあるが、とにかく踏み出してみる。そんな感じ。

リハビリ中です。本ブログの内容にご注意ください。

ブログ著者が昨年9月に入院し、その後退院しましたが、それまでの業務に復帰することはできずリハビリを継続しております。

本ブログではリハビリ中のメモを書くことはあるかもしれませんが、以前と同じレベルの内容(以前も大した中身は無いですが)ではないかと思われます。

デマよりも、本当のことを書こうとして誤ることが多々あるかと思われますのでご注意を。

TLの教育系ベンチャーの存在が自分を勇気付けてくれた

夏バテで落ち込んでいたけれど、上がった。ありがとうございます。誰となく。

 

以下はいつもの与太話。


教育で機会の平等、モチベーションの平等まで持っていくには、
下手な金持ちでは及ばない施設やコンテンツの質を公立の学校やaffordableなサービスが担保しないといけない

その時に問題になるのはスケーラビリティ

AWSSDKやK8Sになってようやくスケーラビリティがツールで補助され、robustnessが担保可能だと言えるようになってきた。

問題は教師
これをどうやってスケールさせたりアクセスの平等を進めるか

案の例:VRで講義、質問のコストがaffordableでなくてはいけない。

とりあえずこの話を思いついて、俺はまだまだ死ぬ前に楽しく考えることがいっぱいあると思えてきた。感謝しかない。

まー、現実の企業がこう言うattitudeでやっていけるかはまた別

市場がまだない。

というのは、

  1. 公平な教育サービスに価値がある、という広報(教育)がなされていない。
    1. 現在のブラック企業ののさばり様をみると、教育しなくても貧困層がそのままでいればいくらでも買いたたける。という構造に依存してサボタージュしている。
  2. 教育サービスをスケールさせる、という価値を補助するルール(行政支援というかサボタージュを罰すること)がない


結局、教育に誰もお金を払わない、払えない

そして、比較して最高の投資である、という状況でない

スケーラブルな教育システムってのはものすごいお金がかかる。しかも長期投資であってVCのサイクルに乗らない。

行政としては既得権層が握っているので、平等は自分たちの失墜リスクを高めるだけ

結局、これは超弩級の金持ちが火星へ行く類の話である

このためにえげつなく金をもうける、という生き方は批判できない。俺は。

Realtimeとは

realtimeってコミュニケーションの観点からは優れているだろうか?

即応できる、のは、限られた範囲だけで、非同期のコミュニケーション(StackOverflow)の方が能力というか精度や情報量は高いのではないか?


自分の働き方もremoteである事の自由度(同期的でないことによるプレッシャーのなさや、アウトプットのタイミングに相手の都合を考慮しなくてもいい)を享受していると言えるかも。

realtimeが必要なのは、それがVR酔いなどの感覚の不一致を防ぐから。
でも、感覚の不一致を防ぐだけなら、「その場しのぎの整合性」だけでもいい。
対戦ゲームで遅延があってもCPUのAIが対戦相手っぽい動きをしてくれれば満足、ということもあるかもしれない。

遠隔地でそうさの結果が必要な場合、何れにしても遅延の補償は必要で、その上で操作感を達成するならば、モデルを用意、もしくは漸次的に(ベイズ的に)構築して行って、proxyがリアルさを出す。


そう、リアルさ、がrealtimeのキモなのであろう。
それが価値。

ならば、ローカルな整合性をAIが担保、というのがおもてなしか。

本当にシーケンスは脳内ではメジャーなのか?

パターンとシーケンス

シーケンスが記憶される。強化されるとはどういうことか。

脳は本当にシーケンスがメジャーなのだろうか?(確信が揺らいでいる)

 

パルス列はパターンを維持するために間欠的に送られているのであって、ステートはもっとリジッドに、そしてガラッと変わるのではないか?

画像のようなパターンは、認識されてそこにしばらく活性化されてあり続ける。
そういうことなのではないだろうか?

では、シーケンスとして大域的な描像を把握するとはどういうことか?
それは無意味なのか?
視線の移ろいがどうあろうと同じ描像が形成されるのではないだろうか?

もしくは、視線の移ろいよりはカバーしているモデルの完備の度合いが問題なのだろうか?

個々のモデルを認識する場合、様々な角度からの「映像」とのマッチングが線形結合して結果として発火するのだろうか?

motorを考えるとどこからかシーケンスが出てこないと困る


動作を考えた場合、シーケンスが出てこないと困る。
動作に結びつくことはシーケンスと結びつく。
発語はシーケンスである。
意識もシーケンスである。

描像はその要素たるクオリアに近いものだろうか?

マシンサイクルはどう決まるのか?

サンプリング間隔
活性の維持時間
視床とのturn round time RTT(round trip time)
活性の立ちあがり時間>
即抑制の立ち上がり時間

感覚入力は結局はON/OFFとタイミング(PWM)

で、タイミングで問題となるのはマシンサイクル。
量子化誤差はどれくらいなのか?
不感帯はどうなのか
ヒステリシスはどうなのか?

結局、センサーからの値はパルスの0,1 になってしまう。
その正規化とタイミングへの変換が感覚器官の進化による洗練の結果であって、人口の脳や意識を考える場合には結局は生物を観察するしかない。