「素粒子の宴」を読んで

粒子と場(波)という、いまさらなことを考えてしまう。(本書は1979年発行のものの新装版)

素粒子の宴 新装版

素粒子の宴 新装版


素粒子とゲージ場とか、言葉を入れ替えることはできるけれど、自分には要するに粒と波、という零次近似でしか考えられない。
というわけで、以下、いつもの与太話。というか妄想、暴言。
粒と波、これが「1つの現象に対する描像が分かれている」という風に感じる俺は、この分野についてのセンスがないんだろうな。と思った。
粒子と力、という分離もそれか。
逆にいえば、描像の数だけ、素粒子の構成要素(次元)があるということか。とか、無理やりな納得をした。サイエンスの考古学ってなかなかツライ。
不確定性原理。ミクロなレベルでの確率論的振る舞い。これについては、あまり心に残る話はなかった。
この双対として、マクロなレベルでの限界はなにか?物理定数や粒子が長期にわたって本当に安定かどうか、という点が自分は興味あるのだが。。。これも、ミクロ、マクロ以外の切り口が存在するような気がする。
「気がする」ではもちろんサイエンスの土俵には乗らないのだが、結局のところ、サイエンスを脱皮させた先にあるものは、必ず、それまで「気がする」領域だったものであるわけで、そういう意味で、自分にとってサイエンスというのはあまり興味の湧かない分野ではある。
コンピュータ、というか、数学とひとくくりにされている分野の多くは「気がする」を精密に見ていく(可能性がある)。そこが自分にとっての数学の魅力だ。
とはいえ、自然は数学に対して尽きせぬインスピレーションを与えてきた、つまりいろんな「気がする」状況を提供してきたわけではあるし、サイエンスがなくていいとか思うわけではない。
パラダイムとして嵌められた枠ではなくて、観察から得られた自然からの謎かけの源泉として、サイエンスは意味がある。というぐらいに思っている。
結局、サイエンスの成果は「棄却される可能性がある仮説の集合」でしかないのだ。こうしてセンテンスにしてみると退屈でしょ。
とか。
この点については、学者当人も受け止め方がいろいろあるみたいで、

  • すべてを説明する原理を信じられる人(信じることがエネルギーにもなる)
  • 見えている範囲を説明することが仕事だと割り切っている人

という分類はあるみたい。で、南部さんは後者のようだ、、、というのがこの本をざっと眺めた唯一の収穫かもしれん(汗