ACIDよさらば

以下の文章は、まったくテクニカルなものではありません。
以下の文章は、推敲を経ていません。とにかく、もやもやを吐き出してしまわないと、日常生活、業務に障ると判断されたために、スピードが優先されています。
以下の文章は、明日以後の自分に向けて書かれています。
震災への対応、みずほのシステムトラブルの長期化、、いくつかの想いが渦巻いている。

  • 災害情報の空白こそがもっともヤバい。「頼りが無いのはbad news」ということ
    • 空白を検知するには、常時、正常値をpollingしている必要がある。そして、それが現実の値を反映しているという確認をする必要がある。そのコストと負荷は許容可能であるか?
  • 災害は現場で起きている。救援のニーズは多様な方法で発信されるか、もしくは発信できずにいる。それをすくい上げるシステムの問題
    • 集中指揮所を置くことによってそこがボトルネックになる問題
    • 整合性を保ちつつ、複数の集中指揮所から指令を出すことは可能なのか
      • 整合性、最適性をあきらめることにどれくらいのコスト、リスクがあるかが評価されているだろうか?
      • あきらめた先にはどんな手法があるだろうか?
    • 情報発信技術の変化のスピードと、中央にある巨大指揮系統の更新のスピードのミスマッチ(陳腐化)
    • 発信された情報が多様なフォーマットを持っているときの正規化のノウハウ
    • Person finderや171のようなシステムについて、良い名前(xxxパターンとか)をつけられるか
    • ニーズの処理過程をトラッキングし、関係者(報告者、担当割り当て者、担当者 etc.)に状態を周知し、処理が停滞したときに適切にremind, escalationするシステムは、BTSの一般化として実装できるか。
    • 報告者と担当割り当ての発見、マッチング(重複排除とその周知)のプロセスをシステムにすることはできるか?
      • MapReduceのような「良い名前」は存在しているだろうか?
      • それは平時には維持のコストと、リテラシー教育のコストが継続的にかかるが、それはsastainableだろうか?
  • 恐竜が絶滅したように、トップダウンでマニュアル化されたシステムは死滅するのか
    • 上から仕様が降ってきて、下請けからマニュアルが上がってくる。その分担構造自体はおかしくないが、仕様やマニュアルは相互のやり取りの中で固まっていくもので、固まる過程で共有される情報がどのように生かされるかが大事。
  • たとえrobustなシステムが(あった|できた)としても、その運用コストの高さに足を引っ張られて、恐竜システムに駆逐されてしまうのか
    • globalな競争の環境において恐竜が生き残るとすれば、agilityを得るための相互理解のプロセスを組み込んだ場合だけnに限られると思われるので、それはもう「恐竜」ではない
    • robustでagileなシステムというのは、矛盾はしていない
  • ACIDを完璧に満たすシステムに「依存する」ことはリスクがある。
    • では、temporalなACIDを補完するシステムの構築方法とコスト評価方法はパターン化されているだろうか?
    • ACID以外に、最適であることをシステムに無意識に求めていないだろうか?
      • さまざまな問題には近似アルゴリズムが存在し、それを複数回適用することで、2σぐらいの領域をカバーできてしまうことがある。
    • 一貫性が破たんした状態で運用されているシステムについての評価の方法ってあるだろうか?
      • たとえば、処理のうち10万件に1件程度は間違った値が出ることがあり、その誤差の上限はxxxとか
    • 依存を減らすには、さまざまなレベルがあり、作業内容によって選択肢も異なるだろう
      • ACIDの要件を満たしていることを検証可能
      • ACIDの要件が満たされていないことが検知可能
      • 同等のトランザクションを代行可能

ここまで書いていて思った。日本の未来は、「日本の」オープンソースコミュニティの中に凝縮されている。何がうまくいって、何がぐだぐだしてしまうのか、為政者はここで文化人類学的調査を進めるべきだ。人が一番重要、かつ交換不能なファクターなのだから。

追記

リスクという言葉を使うとき、それが確率を含むことを忘れないこと。したがって、評価するという場合、それは少なくとも、評価の値の確率分布となる。多次元となることも。そういうものを扱いなれている人間はどれくらいいるのだろう?そういう人がいなければ、「評価」を評価できる人が居ないということになる。実際、放射能のリスクについてはそういうことが起こっているし、自分だって良くわかっているとは言い難い。感覚的にどうこう、というレベルでないのは確かだ。そして、感覚として腑に落ちてこなければ、人は納得しないし、決断もできない。人が動いたとすれば、それは「『評価』に従うべし」という規範の力だ。
検証という言葉を使うとき、統計調査と因果関係の概念の間にあるギャップについて忘れないこと。