意識とは、ついさっきまで生きていた自分の証
bitcoinのブロックチェインの、ようなもの
意識と自由意志というのは幻想というか、そもそもあいまいなもの。
歩こう、と思うのは自由意志?
その一歩を今踏み出したのは自由意志?
一歩を踏み出すために筋肉に信号を送って身体のバランスを変化させたのは自由意志?
一歩を踏み出すとき、ぐちゃっとした間隔があったけど、向こうから来るクルマに気を取られていたら、その無視する行為は自由意志?
歩いているとき、心臓を動かすのは誰?意思?
仕事に取りかかれずにFacebookのリンクをクリックしてしま、、ったのは自由意志?
夜中に胸騒ぎがして、サーバーの死活を確認してたらアラートメールが来てたのは、勘?それとも前日の作業の抜けを「カラダが覚えていたから」?
意識してカラダを制御するとき、「やるべきことをずっと唱え続ける」なにかが脳の仕組みにあるのでは?
すでに安定した「sensori-motor」の記憶と、reharsalの連続という記憶の系がsensori-motor系の争奪戦をする。
そして、reharsalに近い行為が何度も成功すれば、それが定着する。というかsensorの入力に対する応答としての多数派を形成する。
そもそもの話は、プログラマ一生の仕事として、自分の意識・脳の仕組みを拡張するか縮約してネットに放つことを目指してるよな、ということ。で、縮約した結果としてはgithubでもweblogでもtweetでも縮約には違いないけど、意識、ってのはどうだろう、ということだった。